gowalkの雑記ブログ

精神障害者(統合失調症)の雑記ブログ

勉強の哲学 増補版 千葉雅也 感想

著者は立命館大学の准教授で哲学を教えています。この本は著者の専門である哲学に基づいて、勉強とはどういうものなのかについて書かれたものです。

 

本を読んでみた感想としては、難しくてよくわかりませんでした・・・。

 

唯一理解できたのは「勉強とは絶対的な答えを決めないで常に比較して評価をする」ということです。

 

絶対的な何かを指標として持っている人は単なるバカで、常に相対的に物事を評価できる人になりなさいというのがこの本の主張です。おそらく。

 

ところどころ内容を抜粋していきます。

 

自分は「他者によって構築されたもの」である。

これは著者の専門分野に関する内容なのでしょうか。純粋な自分なんていなくて、自分とは常に他者によって作られた「着衣」であると主張しています。これは納得できます。自分一人だけの状態では個性なんて生まれないでしょうからね。

 

 たとえば、誰かが『ドラゴンボール』を「懐かしいよねー」と言い始める。どのキャラが好きだったとか、思い出の場面とか、テンポよく話が流れていた。ところがその途中で、こんな発言が始まる。「ヤムチャ」と言えば、”負けキャラ”だよね。悟空に負けたときはどうでこうで、それから何々でも負けて、あと天下一武道会で天津飯に負けたときは、あの闘いは・・・」

 

 この人はまさしく『ドラゴンボール』の話を始めてしまった。

 残念ながら勘違いです。確かにこの場では『ドラゴンボール』が主題ですが、そのこと自体が目的なのではない。思い出を共有し、親睦を深めるという言語行為に主題があるのであって、時間的な制約もあり、その限りでの話をするということがここでのコードでしょう。

 著者はこのような場から浮く行為をユーモアと呼んで、来るべきバカになるために必要な行為だと言います。こういう様々な見方を比較し続けることが勉強だと主張しています。

 個人的にはこんな空気の読めない人になりたくないですが、こういう行為こそ勉強なのだと著者は言っています。こういう行為をしあえる関係の友を作れとも主張しています。まあこういう行為をお互いに求めている間柄でならかまわないと思いますが、単なる知人の関係性でこういう行為をされると正直困りますね・・・。 

私はこういう空気の読めない発言をすることが勉強なのであるならば、勉強なんてしたくないです。

 

「まずこれだけ」、そして「ここまででいい」という「有限化」を設定しなければ、勉強は成り立ちません。

勉強の有限化が必要である。

 

 自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで享楽的に「中断」することである。

 信頼できる情報に自分の享楽を絡めて考えて、「まあこれだろう」と決める。

 

 ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける。

 すなわちこれは、「勉強を継続すること」です。

 著者は決断をしてはいけないと主張しています。常に比較を続けることこそが勉強だと言っています。決断する行為は「他者への絶対服従」だと言っています。

これは納得できます。絶対的な答えなんて存在しないと私も思っています。

ですが、絶対的な答えを求めてしまう気持ちもわかります。絶対的な答えって安心しますよね。何かにすがっていれば不安もないですし、精神的にも落ち着きます。生きているとどうしても絶対的な答えを求めてしまいがちですが、勉強のためには比較し続けることが必要だそうです。

 

 

感想まとめ

哲学の本なので難しかったですが、比較を継続することが勉強なのであるということは理解できました。私は哲学の知識がないので、哲学の知識があればもっとすんなり理解できる内容なのかもしれません。

 

哲学の知識が少しは身についたかな。勉強になりました。